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『左多六とシロ』のストーリー背景は奥が深くておもしろい~前半~

2020.03.04

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左多六とシロの伝説

鹿角にはたくさんの昔話があります。
その中でも、実際にあったんだろうな…という話が左多六とシロのお話。

とても悲しいお話なので小さい頃にこの話を聞いて、
今でもなんとなく覚えている鹿角の方も多いのでは。

大人になった今、改めてこのお話の背景を知れば、
また新たな視点で昔話を楽しむこともできると思います。

左多六とシロのお話1

お話のはじめは、主人公の左多六とシロが登場します。

【左多六とシロ・ストーリー1】

むかし、下草木に左多六(さたろく)というマタギがいた。
左多六は日本中どこでも猟ができる巻物(免状)を持っており、
これは先祖の定六が源頼朝の富士の巻狩での功を認められて下されたものであった。
左多六はシロというとてもかしこく、主人思いの猟犬を飼っていた。

左多六ってどんな人?

草木

草木に住むマタギ・左多六が主人公の昔話。
左多六の家では、初代から代々に渡って子孫も『左多六』と名乗っていたそう。

一番の祖先にあたる定六は、二戸からやってきたマタギという話で、
藤原氏の北家(あの有名な道長の北家)の血筋を引く人物だという話。

初代は、狩りの最中に山から見下ろした鹿角盆地の美しさに見とれ、
家族を連れて引っ越してきて、草木の村を開拓しました。

マタギの始まりが西暦800年代という話があるので、
草木に居を構えたのはそれ以降の話だと思います。

『左多六とシロ』の話に登場する左多六さんは、それからさらに数百年後の子孫。
戦国時代が終わり、江戸幕府の統治(1603年)になった頃ではないかと
言われています。

日本中どこでも猟ができる大事な巻物は、源頼朝の時代(1200年頃)に、
その当時の左多六が将軍様の目の前で、
大きなイノシシを見事に撃ち取ったことが元になっています。

ずっと昔の数百年前の先祖の功績をたたえて贈られた巻物だったんですね。
主人公の左多六の狩猟の腕も、お殿様も一目置くほど相当に良かったのでしょう。

左多六の家が数百年もの間、代々続く家というのも驚くべき話ですよね。

シロは大きくて真っ白なマタギ用狩猟犬!

秋田マタギ犬の銅像

次に、愛犬のシロについて。

名前の通り、真っ白な毛のシロですが、
みなさんのイメージでは秋田犬ではありませんか?

実は、秋田犬の定義が決まったのは、いまから約100年前のこと。
シロがいたころには、まだ秋田犬というのは無く、ただの狩猟犬だったのです。

秋田犬の祖先犬は、「秋田マタギ犬」と呼ばれるマタギ犬(山岳狩猟犬)で、
シロは、このマタギ犬。
一般的には、中型か中型よりやや大きい程度の熊猟犬です。

よってシロは秋田犬の祖先の犬種ということ!

中型だったという秋田マタギ犬ですが、言い伝えによると、
シロは子牛ほどもある大きな犬だったということ。
混じりっけのない真っ白な毛並みも珍しいそうです。

マタギ犬の中でも特に優れたワンちゃんだったのかも。

左多六とシロのお話2

話は左多六とシロが狩りに出かけるシーンに。

【左多六とシロ・ストーリー2】

二月のこと、左多六はシロを連れて猟に出て、
四角嶽のふもとで大きなカモシカを見つけた。
左多六は銃の引き金をひいたが、カモシカは血を流しながら逃げた。
それを追ううちに、三戸との境の来満峠まで来ていた。
とどめの一発を打ったときには三戸の領地まで入り込んでいた。
三戸の方から鉄砲の音を聞いた五人のマタギが現れ、そのお境小屋が目に入らないか、
勝手にほかの領内で猟をしてはいけないことは知っているだろう、とつめよった。
自分が草木の左多六で、殿様からの免状も持っていると何度も説明するが、
その日に限って大事な巻物を持っていなかった左多六は逃げようとしたが捕えられ、
三戸城に引きたてられた。
シロはこっそり主人の後をついていった。

左多六が撃ったのは歳を取ったメスのカモシカ

カモシカ

話し手によって、左多六が狙った獲物は色々な言い伝えがあり、
イノシシ、鹿、熊、カモシカなど。
そのなかでも一番濃厚な説は、上記のストーリーにも登場するカモシカ。

現在では特別天然記念物に指定されて狩猟が禁止になっているニホンカモシカ。
マタギの獲物と言えば、今ではすっかり熊ですが、
当時は熊と並んで獲物として好まれ、その肉はたいへん美味しかったそうですよ。
特に、左多六が狩りに出た2月の脂の乗ったお肉は美味しかったでしょう。
毛皮も色々なものに加工して、とても重宝したとのこと。

このとき左多六が撃ったのは、
“ヘットウ羚羊(カモシカ)”だとする言い伝えがマタギの間で残っていて、
ヘットウとは、何度も子を産んで背中が歪んだカモシカだそうです。

左多六とシロが通った来満峠は昔の大切な交易路

来満峠とは…
鹿角市大湯から三戸側に繋がる峠道。
地図ではこの辺りです。

昔は南部藩の要人も通る大切な道でした。
尾去沢鉱山が盛んだったころには、採掘物を港まで運ぶためのルートでもありました。

今では車で三戸に行く時には中滝の方を回るか、安代側から回るかですが、
実は、草木から山を突っ切ると、そのまま三戸の領地に繋がっています。

同じ南部藩のマタギなのに信じてもらえなかった訳は?

南部藩の城

身分証明書を何も持っていなかった左多六。
大切な巻物を忘れてしまったのは大失態でした。

ですが、三戸側の5人のマタギの、なんとまあ、ひどいこと!
三戸と鹿角で地域は違えど、同じ南部藩内なのだから少しは話をきいてくれーー!!
と思ってしまいます。

当時の時勢的に、江戸幕府の統治が始まってからまもなくで、
10年程前には三戸南部氏へ反乱をおこした”九戸政実の乱”もありました。
大湯には九戸側についた人物もあったため、鹿角と言うと警戒されたのでしょうか。

また、当時はまだ盛岡城は築城中で、
もしかすると南部藩のお殿様は、まだ三戸城にいたのかもしれません。
盛岡に移る以前は三戸が南部氏の根拠地でした。
三戸は特に警備にうるさい地域だったと思われます。

さて、無情にも三戸城に連れていかれた左多六。
この次のストーリーは後半に続きます…!
続きもお楽しみに。

『左多六とシロ』のストーリー後編はこちら

参考:陸中の国鹿角の伝説、左多六とシロ物語~伝説の背景を探る

【この記事を書いたライター】

スコップ編集部

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